LOGIN翌朝。横須賀線の冷えた車窓から見える景色が、灰色のビル街から湿り気を帯びた緑の山並みへと移り変わっていく。午前九時過ぎ、私は鎌倉の扇ガ谷に広がる閑静な住宅街の奥へと足を踏み入れた。両脇を切り立った崖と鬱蒼とした笹薮に挟まれた私道の先に、黒塗りの重厚な長屋門が威厳を放っている。『菱沼』の表札。かつて東城デパートの呉服部門を日本一へと押し上げ、銀座の財界を陰で束ねていた元当主・菱沼源蔵の隠棲先だった。門前まであと数十メートルの曲がり角に差し掛かった時、私は木立の陰に身を滑り込ませた。門の脇に、見覚えのある黒塗りの高級セダンが横付けされていた。運転席の男は黒眼鏡をかけ、周囲の路地に鋭い視線を配っている。三島宗一の息がかかった監視役だ。(宗一の手が、すでにここまで伸びている……)彼らは菱沼翁を直接脅すことこそできなくとも、屋敷への出入りを監視し、志乃陣営の接触を物理的に阻むつもりだった。正面から門を叩けば、即座に宗一に察知され、先回りした妨害工作を打たれる。私は外商部のコートの襟を立て、敷地を取り囲む苔むした大谷石の土塀沿いに裏手へと回り込んだ。父の書斎に遺されていた東城デパート創成期の記録。そこには、菱沼呉服店の旧店舗や屋敷の構造に関するメモも含まれていた。茶道を嗜む源蔵翁は、正門とは別に、裏山へ続く竹林の小径に小さな潜り戸を設けているはずだった。湿った落ち葉を踏みしめながら裏山へ上ると、鬱蒼とした竹林の切れ目に、杉皮葺きの小さな木戸が見つかった。閂は内側から掛けられていたが、隙間に持参した薄い金属プレートを差し込み、わずかに持ち上げると、乾いた音を立てて木戸が内側に開いた。枯山水の美しい日本庭園。掃き清められた白砂の向こうに、縁側を開け放った数寄屋造りの母屋が見える。縁側に腰を下ろし、湯呑みを傾けていた白髪の老人が、私の足音に気づくことなく庭を眺めていた。着流しを端正に着こなしたその佇まいには、財界から退いて十五年が経つ今なお、底知れぬ威厳が宿っている。「不粋な真似をする。勝手口から上がり込むとは、今の三島の犬どもは礼儀すら失したか」老人は私の方を振り返ることなく、低くしゃがれた声で吐き捨てた。「失礼をお許しください、菱沼様。ですが、正面に張り付く三島の目付を避けるには、この裏庭の茶室口を通るしかありませんでした」私は縁側の手前、
臨時株主総会の開催日は、一ヶ月後の十月十五日に正式決定された。ストライキこそ解除され、本館の営業は再開されたものの、デパートの空気は一変していた。かつて宗一の顔色を窺っていたフロアの従業員たちは、今や誰も社長室を見上げようとしない。社内を支配していた恐怖は、沈黙の軽蔑へと変わっていた。私は外商部のデスクで、渋沢マネージャーから手渡された一冊の極秘リストを開いていた。『東城百貨店・大株主名簿および議決権保有比率推移』「これが現在の勢力図だ、志乃さん」渋沢が周囲を警戒しながら、極めて低い声で囁いた。アイギスによる監禁から解放された渋沢の首筋にはまだ青あざが残っていたが、その瞳には十五年ぶりの闘志が宿っていた。「全株式の議決権総数は一千万株。過半数となる五百一万株をどちらが掌握するかで、すべてが決まる」私は名簿の数値を冷徹に分析した。三島宗一の個人保有分と、万里子夫人の実家が握る同族株を合わせると、約三十二パーセント。一方、私たちが味方につけた海外ファンド『アリアンツ・キャピタル』が八パーセント。労働組合の従業員持株会が五パーセント。現時点での志乃陣営の持ち票は、わずか十三パーセントに過ぎない。「残り五十五パーセントは、創業家一族のOB、全国の老舗取引先で構成される『東友会』、そして一般の個人投資家が握る浮動株ね」「そうだ。特に鍵を握るのは、東友会の名誉会長を務める『菱沼呉服店』の元当主・菱沼源蔵氏だ。彼一人で創業家枠の七パーセントを抑えている」菱沼源蔵。父・東条正義とは創業期からの盟友であり、かつて銀座の旦那衆を束ねていた重鎮だった。正義が失脚して以降は一切の公の場から姿を消し、鎌倉の別邸に隠居していると聞く。「宗一も間違いなく菱沼氏に接触を図るはずよ。七パーセントの票がどちらに転ぶかで、他の取引先の雪崩現象が起きる」「ああ。だが菱沼翁は気難しく、十五年前の事件以来、東城デパートの人間とは一切面会を謝絶している。絢人坊ちゃんを通してアポイントを取るか?」「いいえ」私は首を横に振った。「絢人さんは動かせないわ。宗一は今、誰が裏切り者か血眼になって疑っている。絢人さんには三島陣営の内部で、宗一の票集めの工作を監視してもらう」私は名簿を閉じ、手元のバッグへ滑り込ませた。「菱沼翁の元へは、私が直接行くわ」その日の夕刻。仕事を終えた私は
絢人の狂おしいまでの独白から一夜が明け、東城デパートを巡る情勢は不可逆の濁流となって加速していた。労働組合のストライキは全館の営業停止という形で三島宗一の息の根を止めにかかり、連日ワイドショーを独占する「私設部隊による社員不法監禁」の醜聞は、デパートの株価を連日のストップ安へと叩き落とした。名門としてのブランドは地に堕ち、大口取引先からの取引停止通告が次々と社長室のファックスに吐き出されていた。午前十時。本館八階の第一会議室に、弁護士を伴った渋沢マネージャー、組合の執行部役員、そして海外機関投資家『アリアンツ・キャピタル』の日本代表が顔を揃えた。アリアンツ・キャピタルの保有比率は、東城デパート全発行済株式の八パーセント。私と駆が水面下で根回しを続け、昨夜回収した三島宗一の背任データを提示したことで、完全に味方に引き入れることに成功した強力な外部の後ろ盾だった。「会社法第二百九十七条第一項に基づき、総議決権の百分の三以上を有する株主の連名として、取締役会に対し『臨時株主総会』の招集を正式に請求します」弁護士の乾いた声が会議室に響き、一枚の書面が総務担当役員の前に突き出された。議題はただ一つ。『取締役・三島宗一の解任の件、および新経営陣選任の件』もはや宗一に拒否権はなかった。ここで招集を拒めば、裁判所の許可による総会招集が下り、その瞬間に金融機関からの融資引き揚げが執行される。同じ時刻、最上階の社長室。分厚い絨毯の上には書類が散乱し、灰皿には何十本もの吸い殻が山を成していた。かつて威風堂々と君臨していた三島宗一の双眸は赤く充血し、無精髭の浮いた頬はげっそりと削げ落ちていた。「臨時……株主総会だと……?」秘書から手渡された招集請求の通知書を、宗一の震える指先が握りつぶす。「ふざけるな……! なぜだ、誰が裏で糸を引いている! 大河内を切り、根津を切り、結衣との縁談を潰し、アイギスまで瓦解させた……! 一体誰が絵を描いているんだッ!」宗一は怒号とともにマホガニーの重厚なデスクを蹴り上げた。だが、その叫びに応える側近はもう社内のどこにもいない。息子である絢人すら、昨夜のシステム障害への対応を口実に姿を消していた。完全に四面楚歌。残された議決権の過半数(五十一パーセント)を巡る委任状争奪戦が始まれば、世論と労組を味方につけた反乱分子に押し
組合のストライキ宣言とマスコミの包囲により、本館は営業停止を余儀なくされ、異様な熱気と混乱に包まれていた。正面玄関の外には中継車のアンテナが林立し、拡声器で社長辞任を叫ぶ社員たちの声がガラス越しにくぐもって響いてくる。もはや社内には三島宗一の味方など一人も残っていなかった。私は怒号が遠のく本館最上階、関係者以外立ち入り禁止となっている旧VIPサロンへと足を踏み入れた。重厚なオーク材の扉を押し開けると、遮光カーテンで閉ざされた薄暗い室内の窓際に、長身の男が立ち尽くしていた。「……来てくれましたね、志乃さん」振り返った絢人の姿に、私は思わず息を呑んだ。いつもの隙のないスーツは乱れ、捲り上げたワイシャツの右腕には、応急処置の包帯が痛々しく巻かれていた。白いガーゼの隙間から、滲み出た赤黒い血が点々と広がっている。「その腕……どうしたの」「昨夜、中央管理室の基幹電源盤を物理的にショートさせた時の代償です。ブレーカーの火花と破片で少し裂けましたが、大したことはありません」絢人は痛む素振りすら見せず、静かに微笑んだ。その青白い横顔には、どこか憑き物が落ちたような凄絶な美しさが漂っていた。「アイギスは完全に撤退しました。渋沢さんも無事に解放され、労働組合と外部の弁護士団が父の責任を追及する構えに入っています。父が築き上げてきた恐怖の城壁は、これで完全に瓦解しました」「……ええ。あなたの援護がなければ、私はあの地下で捕まっていたわ。感謝するわ、三島さん」私が一歩引いた事務的な口調で告げると、絢人の瞳に切ない影が差した。「三島さん、ですか。やはり僕の血は、あなたにとっては憎むべき汚れでしかないのですね」絢人はゆっくりと歩み寄り、私の目の前で不意に膝を落とした。絨毯の上に両膝をつき、見上げるようにして私の顔を凝視する。御曹司としての誇りも、社長の息子という立場も、すべてかなぐり捨てた仕草だった。「三島さん、立って……」「父はもう終わりです。人権侵害と違法監査の証拠を握られた以上、次の手は株主総会での社長解任動議しかない。……ですが、志乃さん。今朝、あなたをロビーまで送り届けたあの男は何者ですか」絢人の声が低く沈み、微かな震えを帯びた。「完璧なアリバイでした。神堂冴子の追及をかわすには最高のカードだった。けれど……あの男を見るあなたの瞳は、僕を見る時
翌朝八時三十分。本館の正面通用口には、通常とは比較にならない重苦しい空気が漂っていた。深夜の「外部テロリスト侵入」という建前のもと、アイギスの監査員たちが社員証の照合と手荷物検査を徹底的に行っていた。フロアの隅で腕を組み、冷ややかな視線を注ぐ神堂冴子。その横顔には、昨夜の格闘の際に負った微かな擦り傷がガーゼで覆われていた。「おはようございます」私が黒縁眼鏡を掛け、整ったオフィスカジュアルに身を包んで歩み寄ると、冴子の視線が射抜くように私を捉えた。「佐倉さん。少し別室でお話を伺いたいわ」拒絶を許さないトーン。私は従順に頷き、一階の応接室へと案内された。密室のテーブルを挟んで向かい合うと、冴子は単刀直入に切り込んできた。「昨夜二十三時から今朝五時にかけて、あなたは何処で誰と何をしていたの?」「プライベートなことまでお話ししなければならないのでしょうか」「深夜に地下で起きた侵入事件の犯人と、あなたの体格や動きがあまりに酷似しているのよ。それに……左肩を少し庇っているように見えるけれど?」冴子の観察眼は狂気の域に達していた。だが、私は怯むことなく、デスクの上にスマートフォンの画面を滑り込ませた。「昨夜は、彼とホテルにおりました」画面に表示されたのは、港区の高級シティーホテルの宿泊明細と、ルームサービスのチェックインログ。時間帯は昨夜二十二時から今朝七時まで。「彼、ですか」「ええ。外商部の仕事でお世話になっているコンサルタントの方です。今、彼が外のロビーまで私を送ってくれたので、直接確認していただいても構いませんよ」冴子は眉を微かにひそめ、インカムでエントランスの部下に指示を出した。数分後、応接室の扉が開き、仕立てのいい上質なネイビーのスーツを纏った男が姿を現した。普段の無骨な革ジャンを脱ぎ捨て、短髪を綺麗にセットした駆だった。その落ち着いた佇まいは、絵に描いたような若手実業家そのものだった。「どういうご用件でしょうか。私の連れの佐倉が、何かご迷惑を?」低く洗練された声色。裏社会で潜入や交渉をこなしてきた駆の演技力は完璧だった。冴子は鋭い視線で駆を観察したが、昨夜のフルフェイスヘルメットの男と結びつける物証はどこにもない。ホテルの防犯カメラのタイムスタンプも、絢人の遠隔操作によってすでに整合性が取られている。「……失礼いたしま
ワンボックスカーは深夜の首都高を滑るように駆け抜け、墨田区の外れにある駆のセーフハウスへと滑り込んだ。古びた鉄工所の二階にある隠れ家。冷え切った部屋のパイプ椅子に腰を下ろすと、一気に張り詰めていた糸が切れ、左肩に鈍い激痛が走った。「おい、無理すんな。肩、打撲して腫れ上がってんぞ」駆が冷蔵庫から氷嚢と湿布を乱暴に取り出し、私の肩へ押し当てた。冷たさが皮膚に染み渡る。私は黒いキャップとフェイスマスクを脱ぎ捨て、荒い呼気を吐き出した。「平気よ。それより……ブツの確認を急ぎましょう」リュックから引きずり出した二本のハードディスクユニット。駆が作業机の専用端末にケーブルを繋ぎ、絢人から託されていたアクセスキーを打ち込むと、暗号化されていたデータが緑色のシークエンスとともに展開されていく。画面に映し出されたのは、十五年前の東条正義前社長の無実を証明する財務ログだけではなかった。「……おいおい、とんでもねえもんが詰まってやがるぜ」駆が画面をスクロールしながら低く唸った。そこには、アイギスが三島宗一の依頼で過去数年にわたり実行してきた「裏の仕事」の生データが克明に保存されていた。社内反乱分子のスマートフォンの違法盗聴ログ、私生活の尾行写真、弱みを握って脅迫した念書のコピー。さらには、昨夜から渋沢マネージャーを地下三階の査問室に閉じ込め、睡眠を奪って行っていた非合法な監禁・取り調べの映像ログまで、すべてアイギスの社内サーバーから東城デパートのバックアップ側へ吸い上げられていたのだ。「宗一はアイギスを使って社内を力ずくで押さえ込もうとしたけれど、その猟犬の首輪のログが全部ここに残っている」私は冷たい笑みを浮かべ、痛む肩を押さえながら立ち上がった。ピピッ、とデスクのセキュア端末が短い着信音を鳴らした。画面に表示されたのは、絢人からの暗号化メッセージだった。[中央監視室の防犯カメラ生ログはすべて上書き消去しました。あなたが現場にいた物理的な痕跡は存在しません。昨夜の件は『正体不明の外部侵入者によるサーバー強奪』として処理されています]さらにメッセージは続く。[ただし、神堂冴子は勘が鋭い。今朝の出社時、必ず外商部員全員にアリバイ確認と身体検査を求めてくるはずです。対策はできていますか]「対策なら、もう準備してあるわ」私は端末を閉じ、駆を見上げた。